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四国八十八ヶ所「お遍路」のすすめと、生きる意味 旅行


お遍路で感じる神聖な気持ち

 
 静かな山寺で邪魔にならないように正面を避けて、小さな声でお経を唱えておられるお遍路さんの後ろ姿を見ると、ただの観光では無い事に気付きます。

 お遍路は知らない土地へ行く旅の楽しみに加え、そこには哲学的、思想的なものが在りました。
 
 仏教の長い歴史に触れ、お経に意味があることを知り、現在から過去の多くのお遍路さんの足跡を辿る時、先人の方々と溶け合うような、ここで倒れても人生に悔い無しと思える甘美な瞬間があるように思います。

 人生とは、生命とは、時間とは、宇宙とは、死とは、こうした事を考えさせる何かがお遍路にはあると思います。
 

般若心経の深淵なる意味


 確かなものと信じていた「現実」すら、幻の様なもの。
 現実や人生も、人間の脳が見る幻想のようなものというのです。
 
 どういう事かというと、最高に客観的な見方をすると、現実と信じているこの時空とは結局、地球という惑星の表面に何種類かの原子があるだけです。
 
 人間もその何種類かの原子でできた、変な形の柔らかい固体に過ぎません。

 その変な形の柔らかい固体が自分というものを感じ、相手という原子を見て喜怒哀楽を感じたりしているのです。
 例えば、日々の会話や言い争い、演説や暴言も、ただの空気の分子の振動でしかないのに、感動したり怒ったりしています。
 
 では私が見ている、感じているものは何なのか。

 そこには結局原子があるだけなのに、なぜ、意味や感情を感じるのか ?

 これは、たまたま遺伝子を持った生命と言うものが生まれ、脳が発達したので幻想を見ているだけだと言うのです。

 対象物に意味は無く、自分の脳が意味を作っているだけだと言うのです。
 
 天動説に対する地動説の様な、意識の転換です。
 
 目の前には原子しかないと見方を変えた時、今までの意味や価値観は瓦解しないでしょうか。

 そして仏像の「半眼」とは、この見方をした目であると、個人的には思っています。
 
 そして、般若心経は一行目で言います。
 
 観自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五蘊皆空度一切苦厄

 カンジンザイボサツ、ジンハンニャハラミッタヲギョウゼシトキ、ゴウンカイクウトショウケンシ、イッサイノクヤクヲドス。

 「空」を理解して苦しみは無くなる。

葬式の異質感、非日常感 


 子供の頃からお葬式で幾度と無く聞いていた、退屈で訳の分からないお経に、実は学問や文学とは別種の、それらを超えた、深いものがあったとは驚きではないでしょうか。

 そういえば死や葬式には、確固たる(と信じている)現実が揺らぐ様な、何か時空が溶けるような、瞬間何かの「答え」が見えるような、異質な感覚があった様な気がするのは私だけでしょうか。

般若心経から連想した、死生感


 生きるとは何なのか。
 死んだらどうなるのか。
 
 誰か言っていた、死とは生まれる前に帰る事・・・。
 と言うことは。
 科学的に言ったら、死とは(幻想を見ない普通の)原子に還る事か(!)
 
 そして、その原子からまた生命が作られる。
 それでも地球の重さは変わらない。
 ひとり死んでも、全人類が滅んでも地球の重さは変わらない。
 原子量は変わらない。
 これは質量保存の法則では無いか(!)

 私もその原子の少し集まったものに過ぎない…
 
 (科学や原子や質量保存の法則も無い遥か昔、修行中にこれを感じ取り、「空」と表現したのでは無いでしょうか。)
 

生前の世界も 幻想のようなもの


 五蘊皆空、人間が感じる事はすべて空である。
 
 見える物も聞こえる物も触る物も味も匂いも「空」、脳がそう感じるだけ。
 喜びも悩みも感動も恐怖も虚栄も悲しみも科学も哲学も、実は有りはしない。?
 
 私を形作る原子は、過去の沢山の生命だった原子も含まれているのでしょう。
 そして同じように私が死ねば原子に還り、地球や他の生命の一部となるのでしょう。

 人生や現実と信じている事柄こそ、人と言う生命体が見る夢や幻に過ぎないのかも知れません。
 死後の世界以上に、生前の世界が実は有りはしないと言って良いのかも知れません。
 
 
 物事は見方によるというのも、般若心経の教え。
 
 答は歩き考える中にあるのでしょう。

 お遍路はこんな事を教えてくれました。
 

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